|
|
バンコクでの中学生活最後に目指すべく大会”U-15 Creer fc Cup”、我がCreer fcは準備期間で結果が出せずに不安を抱えたまま大会を迎えるも、選手達の固い結束と熱い気持ちを全面的に出した戦いで、決勝まで這い上がって行った。しかしエースとして活躍が期待されたNo.10の姿はベンチにあった。肺気胸…受験から戻り最後の大会へ向けて再始動を始めて数日、彼を病が襲った。
今”いとたく”が指導者として在るのは、「本格的な指導を受けたい」とリクエストをくれた選手達のお陰、その中に彼もいた。夜間練習、大人チームでの練習…俺の次々と突拍子も無い提案を文句1つ言わずに参加し続けてくれたNAOKI。”味方への命令”、”相手へのラフプレー”などコーチに怒鳴られたことは何度もあったけど、ストライカーはこれ位の”熱い気持ち”が必要だと思ったし、選手として俺も同じことをやっていたかもなと思いながらの指導だったかな。
前々回の大会時、準決勝で開始10秒で「(怪我が痛くて)プレー出来ません」と俺に告げたことがあった。チームは混乱している内に敗退、俺はプランが狂ったし事前に伝えといてくれたら試合に向けて準備が出来たのに…と思ったんだけど、「自分がチームを引っ張る」という強い気持ちが”(怪我を)隠すこと”を選択したんじゃないかってね。
俺にはバンコクに兄的な存在が居る、何を隠そうNAOKIのお父さんである。年が近いこともあるが、俺の人生の決断や考えに対して”こうしろ”というのではなく耳を傾けてくれる。「いつかは去りゆく運命にある選手達に熱く接してくれる…」と感謝されたことは俺の指導者としての色として常に胸に持ち現場に立ち続けている。
そんな兄貴からの中学生活、バンコク生活を終えようとしている息子NAOKIに向けてのメッセージ…
「10番に誇りを持ってこれからも頑張って…
10番のユニホームを初めて受け取った時(NAOKIには)正直荷が重いと思ったけど、
日を追うにつれ、どんどん10番はNAOKIじゃなきゃダメってなってきたね。
それは決して在タイ年数が長いことだけじゃないと思うよ。
上手さというより、努力する姿勢や試合中に手を抜かない姿勢など、NAOKIにしか出来ないスタイルがあったからじゃないかと思う。
あと、チーム愛ね。ちびっ子を含めた後輩にも愛情を注いできました。
自分自身人を客観的に見る目には自信があるけど、
こと、自分の子どものことになると自信がなくなるのよね。
親の欲目かと思う時もあるけど、決してそうじゃないと思う。
今でも瞼に焼き付いているのは、中2の2学期最後のINFINITO Cup (現U-15 Creer fc Cupの前身)、準決勝BSS戦。
NAOKI等の世代にとっては当時最大のライバル関係だったはず。
NAOKIは決して器用ではないタイプだけど、一生懸命ピッチを走りまわってプレッシャーをかけてたね。
試合も終盤、お互いに疲れが見えたころ、ボールが相手ゴール右に流れたとき、
誰もが追いつかない、追いつけないだろうと見ていたボールに最後まで諦めずに走り、
相手ディフェンダーを振り切って追いつき、角度のないところからゴールに向かってシュート…。
グラウンダーのボールは意表を突かれたGKが触ることも出来ずにゴールイン!そして勝利…
NAOKIが小学校低学年の頃、仲間や年下と比べてもそれはそれは下手くそだったね。
当時のコーチに厳しく・温かく指導して頂いたね。
忘れもしない練習終盤のインターバルトレーニングでのNAOKI。
走りも遅い、体力もないのに、みんなに食らいついて半泣きで走ってたね。
試合の時も、遅い足で相手選手やボールを追いつかないのに追いかけて足音でプレッシャーをかける…。
決してあきらめない姿勢はその頃から不変。
これでもサッカーが好きというNAOKI。正直不思議に思ったこともしばしば。
そして、タイで伊藤コーチと出会い、身体も大きくなり、精神的にもたくましくなったNAOKIは、サッカーの楽しさと厳しさを同時に教わり成長していきました。
中学生の最後はちょっとした病で引退試合も卒団式も応援に回るという残念さ。
NAOKIの気持ちは痛いほど分かります。
それでもNAOKIはCreerの10番。きっと心からチームやチームメイト、コーチやピッチ、そして応援に来てくれた親御さんや仲間を愛し、自分のことのように応援してたんでしょう。
高校でも同じ精神で取り組んで欲しい。
怪我や病気はスポーツにはつきものだけど、それも今まで培った精神力で乗り切ってほしい。
この前無事に終わった高校受験、これもNAOKIのサッカーで培ったマインド・スタイルで勝ち取ったものと思う。
これから立ち向かう大学受験、就職活動や様々な局面も同様に、今まで以上に成長していけば問題ないと思ってます。」
父親として尊敬する兄貴、そんな兄貴から多感な時期の息子を俺に預けてくれたことに感謝。俺は期待に応える事が出来たかどうか…俺の古巣ファジアーノ岡山をリスペクトして作製したCreer fc TOPチーム用臙脂色ユニホームの初代No.10。NAOKIのサッカーノートに以前記された”東京オリンピックに出たい”という夢をバンコクより追ってみようと思う。
関連記事