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2007年12月2日熊谷、俺は表題の横断幕をピッチ上で何度も見ることで肉体的にも、そして精神的にもタフであった戦いの終わりを告げるホイッスルが鳴るまで走り続けた…。
2006年6月、31歳となりそろそろ引退を考えていた俺のもとに「ちょっと会って話さないか!?」と連絡が届いた。俺の幼馴染の元上司、現ファジアーノ岡山の木村社長からであった。「将来はJリーグを目指しているのであるが、今年中にJFLへ昇格しなければならない」との使命、長年JFLを戦場としていた俺は”Jを目指す”という言葉には正直ピンと来なかったが、”JFL昇格”という明確な目標を持つチームで自分の力が必要とされているということで胸に熱いものがこみ上げてきたことを憶えている。
2005年に国体で岡山は訪れていた。俺がプレーした東京選抜は惜しくも準決勝で敗退をしたのであるが、そこで使用した”桃太郎スタジアム(現シティーライトスタジアム)”がホームスタジアムであるということに、そして岡山市を拠点として活動するスポーツクラブが無いという現状も大いに魅力を感じた。
東京から出産を控えていた家内を実家へ預け、まずは単身で岡山入り。そこで今までと違うサッカー環境の改善を要求するべく木村社長や小川統括本部長には、生意気にも時には喧嘩腰で意見をぶつけ続けたっけ。
とはいえ俺自身はプロ選手というものに魅力を感じておらず、この時点ではアマチュア選手としての契約。その後チームが”Jリーグ準加盟”の申請をしていく上でプロにならざる終えなくなったというのが、いとたくのプロサッカー選手誕生への切っ掛け。31歳10ヶ月でプロになった俺は公に「Jリーガーを目指します」と口にすることで”やらざる負えない”環境を自分に課していたのかもしれない。
2015年8月、今回5年ぶりに訪れた岡山の地。Jクラブとして成長を続けている岡山の現状を視察させて貰おうと小川統括本部長にクラブハウスのある政田サッカー場やオフィシャルショップファジスクエア等を案内して貰った。そういえば岡山移籍を決める前に視察に訪れた際も色々と街を案内してくれたのも小川さんだったな。その日は美作で佐川急便中国との試合があり、勝利を願うあまり酸欠となってしまった小川さんの姿が懐かしい。
クラブハウスでは木村社長が時間を作って待っていてくれた。そこで施設内を案内頂き…ナイターで土のグランドで練習していた時代を知る俺はただただ「凄ぇ×2」を連発していた。そしてクラブ職員の方々に挨拶をするために事務所内に足を踏み入れて思わず目頭が熱くなってしまった。
俺のユニホームが飾られていたんだよね。ファジアーノ岡山に携わったのは2年半という短い時間、だけど本当に俺にとっては濃密なシーズンだった訳で…結果としてJFL昇格、そしてJリーグ昇格へとクラブを導く力に少しはなれたのかなと感じていたけど、嬉しかったね。
日本そして岡山滞在の最後にはJリーグ観戦をさせて貰った。この日はたまたま”ファジアーノ岡山vsギラヴァンツ北九州”の古巣対決。試合の方は岡山にとっては残念な結果となったのであるが、スタジアムの雰囲気や熱きサポーターに触れ「やっぱりJの舞台は目指すべく特別な場所だよな」と改めて感じたね。バンコクで指導者として活動している俺は、選手達に「俺みたいな何も実績を残せなかったJリーガーになるな、簡単に超えて行け」と常々話しているだけれど、一人でも多くこの舞台で活躍する教え子をバンコクから輩出し続けてやると、いくつになっても夢追人でいようと思ったね。
今回の日本滞在は色々な目的があったのだけれど、俺の中にはバンコクでの野望がある訳でそれに対して色々と意見やヒントを貰おうと…小川統括部長との再会がメインであったといっても過言ではないかな。そこで小川さんと交わした一言一言が本当に刺激になったし小川さん自身も「ファジアーノで得た経験を今後他クラブに還元していく」ことも考えているようなお話をされていたので、先日発表となった「Jのクラブ経営アドバイザーへの就任」のニュースは驚いたというよりは、”新たな道を歩み始めましたね” と微笑ましく感じたね、いくつになっても俺にとって小川さんは…本当に格好良い。
濃密な時を過ごせた日本滞在、色々なことを勉強出来そしてバンコクに持ち帰ろうと思う。更にこれらを”いとたく色”に染めながら選手達へ伝えていけたらと考えている。サッカーを通じて色々な人との出会いや再会に感謝。選手達と一緒にバンコクサッカーの歴史を沢山刻んでいけたら良いね。いとたくは今日明日も熱く熱苦しく…。
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