2014年9月28日掲載
自分が立ち上げに奔走したバンコクでの7人制サッカー大会”U-15 INFINITO Cup”。3月と8月、日本へと本帰国をする仲間と一緒に目指すべく最後の大会として親御さんが観に来れるようにナイター開催に拘って立ち上げたのだけれど、既に2回開かれた大会にて教え子達が3位と準優勝を勝ち取ったことは先のコラムにて書き記してある。
実はこの大会には2チームをエントリーしていて、2大会とも1つのチームは結果を出せずに予選敗退を喫していた。初回大会ではキックオフゴールを決められ、第2回大会では開始0分で消極的なミスから失点…常日頃から「試合の入りは大事」と口酸っぱく伝えているのだけれど、これでは特にOne-dayの大会では波に乗れないよね。
第2回大会でミスを犯した選手は責任感が強く「俺の責任で…」と予選敗退が決まると同時に泣きじゃくってしまった。まぁ敗退したチームはみんな大泣きするんだけど…でも1人また1人と「(勝ち上がって準決勝を戦うもう1つのチームの)応援をしてサポートしようぜ」と悔しい気持ちを胸に仕舞い行動を起こしてくれる。この姿には毎度心が打たれるというか…このような小さな大会でも”気持ちを込めてボールを追える、熱くなれるものを持っている彼ら”は本当に羨ましいく思えるし格好良く見えるよね。ミスをした選手も大声を張り上げ応援をしていた。
大会終了後、閉会式を終え会場の撤収作業をしていると放心状態でいる先ほどの選手がお父さんと座っている姿を見つけた。彼のお父さんもサッカーをしていた関係で、よく親子でサッカーの話をし、お父さんから適格なアドバイスをもらっているそうだ。声を掛けに行くと「相当凹んでいるみたい…」とお父さんが教えてくれた。だから俺はこんな経験談を話すことにした…。
「もう15年も前のことだけど、伊藤コーチは大宮Ardijaに所属していた。とはいってもプロでは無く…当時の大宮はNTT関東という企業チームだったんだけど、翌年から始まるJ2に参加表明をしていて、俺は新チーム名と新ユニホームをお披露目する試合でスタメン出場を果たした。当時の外国人監督に気に入られていて、Jで実績のあるベテラン選手からポジションを奪ってスタメンに定着仕掛けていた時期。観客は毎試合1,000人も入らなかったホームゲーム、しかしこの日の大宮サッカー場(現Nack5スタジアム)はオレンジ色一色に包まれて超満員であった。相手は東京GAS(現FC東京)…”もしかしてJリーガーになれるかも…”、淡い期待に胸を躍らせていて俺は浮かれていたのかもしれない…。
試合開始0分、初タッチで大きいことをやろうとした俺はボールを掻っ攫われて失点…大失態である。そこからは全く記憶が無く、前半終了を待たずに交替させられたと思う。試合も0-3で完敗であったと記憶している。その後何試合かチャンスは貰ったんだけど、俺はこの試合が”Jへの扉を一度絶たれた試合”だと位置付けている。もう一度時が戻せるのなら、俺はこの試合のKick Off前に戻りたいと今でも思う。」
「「試合の入りが大事」という事をこんなちっぽけな大会で学べたんだから、俺に比べたら全然小さな事だろ。これを教訓にしてもう2度と繰り返さなければ良いじゃん。次に向かおうぜっ!!」…今現在彼は強い左足のパスを武器に攻撃的なCBへと急成長を遂げている。
俺は8月に指導するスクールを移籍、中学生は全員付いてきてくれた。”こいつらを日本に帰ってからもやり合えるように育てていかなければいけない”と常に胸に秘めながら練習に励ませ試合に送り出している。だから時には声を荒げて叱ることがあるのだけれど…そしてこのCreer fcのTOPチームである彼らへ憧れを持ち、ドンドンTOPチーム入りに挑戦していけるような小学生戦士達も育てていかなきゃだよね。まだまだBangkokで俺はやらなければいけないことが山ほどある…休んでられねぇ、まぁ好きなサッカーでのことだし幸せだと思わないとね。
伊藤琢矢(いとたく)
アマチュアに拘りプレーを続けた20代。33歳でのプロ契約を期にJリーガーを目指す事に。大宮・岡山・北九州とJリーグ昇格に携わり、自身は36歳でJのピッチに立った。2011年よりタイに活躍の場を移した「夢追人」。
いとたくブログ『夢追人』
Regista in Thailand