2013年12月28日掲載
12月21~22日、INFINITOサッカースクールでLop-Buri Campを行った。このキャンプは普段練習を懸命に頑張る選手達へのご褒美として、サッカーは勿論のこと、各アクティビティーやタイならではの自然と触れ合いリフレッシュして貰おうと、毎学期終わりに場所を変え行っている。今回はLop-Buri、自身キャンプに参加するのは2回目でこの地は訪れた事が無かったので非常に楽しみにしていた。
初日はサッカーを2試合、2日目は釣りや田植え体験をした後ATV(4輪バギー)やラフティングを楽しみ、最後にひまわり畑やブドウ園を訪れた。宿泊した部屋はまさかの(前回と同様)選手と相部屋で…でも同部屋だった中学生と“恋話”で盛り上がり、「相部屋も悪くないかも…」なんて感じたりもした。
初日の夕食後、選手達に対して講義をする時間が与えられた。何を話すかは自由で、折角だから自分のサッカー体験を伝えられたらなぁと…“夢”について話すことにした。その講義で話したことを以下に書き記そうと思う。
「幼稚園の卒業アルバムには“将来の夢、プロサッカー選手”と書いてある。しかし実際は野球選手になりたかった俺、サッカーは親の強制で小学4年生から始めた。小学校はそれなりに強かったけど、強いといっても市内での話。中学は公式戦で勝てるようなチームでは無かったし、サッカーは好きだったけどユース代表や関東選抜、ましてや県選抜なんてもってのほか、高校は大学進学を考えて一般入試により入学した。
そこでたまたま読売クラブ(今のヴェルディ東京)の立ち上げに携わった柴田先生と巡り合う。サッカー部に入ることは決めていたが周りは関東選抜や県選抜の推薦入学組みばかり、更に部員は130名。実力に自信が持てなかった自分だったのであるが、「高校3年時までに全国大会に出場すれば大学に行ける」という先生の言葉を鵜呑みにし、まずは名前を先生に憶えて貰おうと誰よりも練習をすることでアピールすることにした。
Jリーグが始まったのは93年、俺が大学1年生の時…まだプロサッカー選手という認知度があまりなく、有名な選手達は皆大学でのプレーを選択していた。俺は始発電車で朝飯を食べ、7時前から個人で朝練…授業中はひたすら昼寝。部活の練習をした後当然居残り練習をしてから、バスケ部の練習が終わるのを筋トレしながら待ち、体育館で21時過ぎまで練習をした。
いつの頃からかレギュラーの座を掴み、3年生の時にインター杯出場を果たした。1回戦の相手は国見高校、優勝候補の選手達を視察に訪れていた大学のスカウトの目にたまたまその試合の活躍で留まったようで、大学の推薦入学を勝ち取った。NTT関東(大宮Ardija)入団もそう、たまたま同じチームの相方を見に来たスカウトの目に留まり、セットで獲ってもらえることになったという。懸命に頑張っていれば…頑張り続けていれば誰かが必ず見ていてくれるということか。
Fagiano岡山も一緒、天皇杯でのJチームとの試合に何度か来てくれた親友の元上司が岡山の社長となり、“上を目指していくうえで目玉となるCBが欲しい”という事で俺に白羽の矢が立ったみたいだ。
Omiyaや佐川東京、そしてOkayamaと渡り歩いてきたが、実はプロでは無くアマチュア選手であった。例えば佐川東京では午前中にセールスドライバーとして配達をし、午後から練習という生活。岡山もそう、日中は宣伝活動や普及活動を行い夜から練習を行っていた。だからハッキリ言って「サッカー選手です」とは言えない自分がいたんだよね。
Jリーガーを目指し始めたのは31歳の時、岡山とプロ契約を結んでから…36歳4ヶ月でのJリーグデビューは最も高齢の日本記録と言われている。Jリーガーとなったのが35歳だから、夢をかなえるのに30年近くもかかってしまったわけだ。
ちなみに20代の時は漠然と“高層マンションに住んで夜景を見ながら暮らしたい”なんて冗談で言っていたんだけど、現在タイライフで実現しているんだよね(笑)。
“夢”というものは、変わっていっても良いと思う。例えば俺は“プロサッカー選手”という夢をかなえたわけだけれど、引退してからもその先に人生はある。俺は現役の時に“サッカーは自身がプレーしてなんぼ、教えるものではない”と思っていた。ましてやタイで生活していくこと、みんなとバンコクで出会えることなんて微塵も考えたことが無かったから。
俺は元Jリーガーだけど1年在籍しただけ、試合にはほんのちょっとしか出ていないし何も実績を残していない。だから今も「元Jリーガーです」なんて恥ずかしくて言えない、後ろめたい気持ちが強くてね。でも今は自信を持って堂々と言える…「バンコクで子供達に熱くサッカー指導しています」ってね。
俺は今“直近の目標”と“将来の目標”、そして“将来の夢”を持っている。“直近の目標”は「INFINITOをバンコクNo.1のスクールにすること」。そして“将来の目標”は「INFINITOをNo,1の座に居続けさせ、タイの強豪チームの仲間入りをすること」。そしてその先の夢は「Jであれ、タイリーグであれ、世界であれ…教え子の試合を満員のスタジアムへと観戦に訪れること」。
人生において、日々の生活において、そして本を読んだりテレビを観ていて…胸に響く言葉というものが必ず出てくると思う。その言葉というものは、将来必ず役に立つから胸に刻んでいって欲しいし、サッカーノートに書き込んでいっても良いだろう。そして“直近の目標”“将来の目標”そして“将来の夢”を最初か最後のページに書き込んでおいてほしい。
お前達が一生懸命サッカーに打ち込むことで、お父さんお母さんに喜びを与える。夢を持つことは大切なこと、そしてお前達の夢に向かってのプレーは他の人に夢を与えることにもなる。いとたくコーチの夢をかなえることになるかもしれない。お前達の日々の成長が嬉しい、だから本気で怒るときもある。100%で夢に向かって前進すること、願い続ければ必ず夢は叶うものだから…。」
少しでも選手達の胸に響いていれば良いのだけれど…寝ている選手もいたからなぁ。
伊藤琢矢(いとたく)
アマチュアに拘りプレーを続けた20代。33歳でのプロ契約を期にJリーガーを目指す事に。大宮・岡山・北九州とJリーグ昇格に携わり、自身は36歳でJのピッチに立った。2011年よりタイに活躍の場を移した「夢追人」。
いとたくブログ『夢追人』
Regista in Thailand