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2014年8月、バンコクで開催された「ジャパンフェスタ」のスペシャルゲストとしてライブを披露した元モーニング娘。の田中れいなさん率いるLoVendoЯ(ラベンダー)。そこには、応援のために日本から駆けつけた車椅子の男性・大久保健一さんがいました。
これはLoVendoЯの応援を終えた後、大久保さんが日本へ帰国する際にバンコク・スワンナプーム空港で搭乗拒否にあった際の記録です。
大久保 健一
8月25日から、約一年半ぶりにバンコクに行く事になった。
この春にバンコク行きの便で搭乗拒否があり一回肩すかしがあった後、やっと今回A航空の新規就航便に搭乗できることになった。電動車イスのバッテリーの安全性などを証明する書類を4種類取り揃える苦労はあったが、なんとかOKになった。使用機材のA320は飛行距離制限により本州からバンコクは飛べないため九州より南からバンコクまで飛ぶことになる、という事で福岡からバンコク直行の往復便だ。
さて今回バンコクに行く意味は田中れいなが率いるラベンダーがタイで日本文化を発信するイベント「ジャパンフェスタ」にメインゲストとして出演するのを応援しに行くためだ。12年来応援してきた田中れいなが国際的な大舞台で一人立ちして歌うのは初めてなので僕も感慨深い。そもそも田中れいなのファンになった切っ掛けから書く、それは12年前の夏の事だった。
当時僕はモーニング娘。には始めは興味がなく、「LOVEマシーン」の頃も1アイドルが頑張っている程度な認識だった。そんな僕がリーダーの中澤裕子が卒業するという事で最後にミーハー感覚で見に行ったコンサートで、そのまばゆいばかりのメンバーで歌やダンスに圧倒され僕の心を鷲掴みされたのが、モーニング娘。に興味を持ち始めた切っ掛けだ。
その後サブリーダーの保田圭のファンになり約2年追っかけ、卒業公演となる埼玉スーパーアリーナに行き、これでモーニング娘。のファンも最後だなぁ~と思ってコンサートに望んだのだった。保田圭の卒業の言葉で涙したあと新しい6期メンバーが紹介され、その中で田中れいなが彗星のごとく入場してきたのを今でも脳裏に焼き付けている。初めて見る田中れいなは何処か反骨的なヤンキーぽい娘で一見怖そうにも見えた。挨拶が終わり袖へ退場する時に、一般席とは離れた位置にある車イス席の僕のほうを見て手を振ってくれたのが今でも忘れられない。その時からこの田中れいなを応援しなければならないと使命感に燃えたのだった。その時からもちろんモーニング娘。のファンは辞められず保田圭の時以上に追っかけパワーがヒートアップしていった。それこそ北海道から九州までのコンサートに追っかけだしたのは田中れいなが入ったからだ。田中れいなは一見、怖そうな雰囲気だが必ず僕にアイコンタクトをしてくれる、他のメンバーには無い優しさがある。なんでそこまで言えるかというと、群衆に僕が隠れている場合は分かりづらいが、最前列のはじのスピーカーの裏とかにいると必ず照明が降りた合間とかにもスピーカーの溝とかからでも必ず明らかに僕だけに手を振ってくれる。
そんな事をされているとファンがますますファンを辞めれなくなりドツボにはまっていくのだった。途中、僕がある団体の代表になったときは、出張に絡めてコンサートに行くなどして、それが度がすぎて代表の座を追われることになったぐらいだ。(注釈・ 経費的なものは自腹で払っていたが時間的なものを出張などの中で割きすぎ、代表を退いたという意味です。だからこそ格安航空や鈍行電車での移動、またホテル以外のネカフェやカラオケあるいは野宿などの極力貧乏旅行に徹しているところです。) そして謹慎のために本土から一番遠い離島に引っ越ししたが、コンサートに行きたい身体はセイブできず、年に半年近く本土にもどり追っかけ生活を再開してしまった。そんな中でその当時は握手会もない時代であったが、ハワイへのファンクラブツアーに行けばメンバー全員と握手できるという夢のような企画が舞い込んだ。三泊で20万円以上なので人から借金をして行くことを決心した。その後の生活は言わずもがなであるが、それにより吉澤ひとみリーダー時代のモーニング娘。メンバーと初めて握手ができた。初対面の田中れいなは言葉もいらず、僕がいろいろ言っても全てを卓越した感じで無言でうなずいてた印象が今でも鮮明に残っている。それまでの応援していたことをわかっているようで、それに対しての感謝のうなずきと感じた。この当時は海外まで行かないとこんな握手はできなかったのだ。帰国後ますます追っかけるようになり1ヶ月の新宿コマでの舞台公演のうち半月以上新宿まで通ったこともある。
それで信用など失ったものも多いが、田中れいなに捧げた応援の日々は今では悔いはない。高橋愛がリーダーになり握手会も増え、田中れいなとは話す機会も増えていき、僕の言語障害もよく聞き取ってくれ、手紙も自ら受け取ってくれるようになっていった。そしてモーニング娘。卒業が決まった後、半年間は全てのコンサートを追っかけた。新しく結成された田中れいな率いるラベンダーと同時並行だったので、100km以上をとんぼ返りするなど、かなりタイトなスケジュールだった。一番キツかったのが冬の仙台で2日間モーニング娘。とラベンダーのライブを見た後に、その足で鈍行で新潟まで向かい、山形県酒井で終電が終わり駅前に何もない町で吹雪混じりの寒風に朝まで耐え始発を待って新潟県長岡に向かい、やっと着いた長岡では大雪が積もっていて身動き取れず、人から人に押してもらいながらやっとの思いで会場にたどり着いたことだ。あの時は本気で凍死するかと思った。そんな苦労が多くあった卒業ツアーの追っかけだった。卒業直前の握手会では、なけなしのお金を振り絞って僕にとっては高価なイヤリングと鏡をプレゼントしたのである。この卒業祝いを渡したことでモーニング娘。田中れいなのファンとしてはピリオドが打てた。
武道館の卒業ライブでは田中れいなも泣かず、僕もにこやかな雰囲気で今後のファン生活の健闘を誓う建設的なライブとなった。とかく卒業というとしんみりしやすいが、明るく通過点のような卒業ライブになったので、田中れいならしかった。
ラベンダーでのライブ活動のみとなったが、バリアの多いライブハウスが会場であることが多いのでライブ参戦は控えて行こうと思い、卒業後すぐのソロのファンクラブツアーに参加し、追っかけは自粛するつもりだった。おつかれいなツアーということで、握手会でも僕のファン活動に「おつかれいな」とねぎらってくれて、「ラベンダーにも今までの感じで応援してね」と言われたので、ラベンダーのライブの追っかけが再燃してしまった。そこから小さいライブハウスでも階段があってもたじろがずに追っかけるようになり、スタッフもだんだん慣れてくれて、バリアがあってもサポートしてくれるようになった。ライブハウスの人達も仮設のスロープを作ってくれたり、ロープを張って車イス席を作ってくれたり、いろいろ工夫してくれた。これも田中れいなやラベンダーが僕をはじめ車イスへの配慮を考えるように言ってくれたのだろう。ライブハウスはバリアこそ多いがアットホームで至近距離でライブが楽しめるから、またラベンダーにのめり込んでいる状態である。どこの会場でもグッズを買うだけで握手ができるようになったので、身近に話せるようになった。
そんなラベンダーが何とかメジャーになるまでサポートしていく決意だ。スポットライトを浴びてたモーニング娘。時代よりもファンとしては応援し甲斐が増した。
そんな中でアジアで第一歩を記すのが、僕が大好きでこよなく愛する街バンコクになったことは単なる偶然とは思えない。前述の歴史を踏まえ今まで田中れいなと歩んできた10年来のファンとしての蓄積と英知を総動員して、バンコクでラベンダーファンが1人でも増えるように尽力していきたいと思う。そのために公演5日前からバンコク入りし、色んなスポットでラベンダーのライブをPRして願わくば『一緒にライブに行く現地の仲間を集めて参戦したい』と思う。そのことが田中れいなやラベンダーのアジアでの旋風を吹き起こす一助になればと願っている。そしてバンコク公演及びジャパンフェスタを成功裏に終わらせアジア=バンコクの中心で「おつかれいな!」と叫んできたい。こんな思い入れある目標を持って張り切って今回、訪タイするのだ。
バンコク・スワンナプーム空港今朝2時15分発福岡便で搭乗拒否。出国してゲート入りボーディングブリッジも渡り機体に入る直前で、機長が乗せないと。また今夜の便でリトライすると言うがいつ日本に帰れるのか?大至急、確認を取ってほしい。いくら機長判断と言っても事前に念密に連絡し貴社と電動車イスメー カーからの証明書を印刷し持参し往路、福岡からバンコクは8月25日に搭乗できたのにも関わらず搭乗拒否は差別行為であり貴社の失態の何ものでもありません。昨夜ホテルの提供を要求したのに取ってくれず空港のベンチで夜を明かしました。変圧の上での電動車椅子の充電(コンセント探しも)や使えるトイレが少ないから遠くまで重い荷物を持って移動し用をたす、それで汗をかいてもシャワーも浴びられない等、多くの障害者ゆえの身体的精神的苦痛を現に今、きたしています。言語の壁もあり地上係員にすべて伝えられず我慢を強いられています。それに加え例え今夜帰国できてもすべての予定が崩れており福岡空港から兵庫県西宮市の自宅まで早急に帰らねばなりません。普通列車を利用しようと思っていたのに新幹線等を利用しなければならず余計な負担増です。僕の日常生活にはヘルパーの介護予定も組まれておりそのキャンセル料金も発生します。その他多くの損害が発生しており、今後の教訓にしていただくためにも、帰国後に法的手段やIATAへの通告も含め対応を考えます。欠航とは違い僕だけが搭乗できなかったことが他者との平等の観点から大きな問題であり逸脱する行為です。とにかく取り急ぎ日本に帰国かつ自宅に的確に帰宅できるように、一刻も早く至急誠意ある貴社の対応を心底より望みます。もう空港の床にパソコンを置いて打っているので疲れ果てました。あとは帰国後にまとめて要望し ます。
遅くなりましたが、当時の詳細な記憶を書きます。
9月9日18時頃から早めにスワンナプーム空港に行ってカウンターの開くのを待ってましたが、23時近くにやっとカウンターが開いたので、チェックインの手続きに行きました。その場で、カウンターの係員にパスポートと予約番号と貴社からの証明書と電動車椅子メーカーからの証明書の4点を提出し、ボーディングパスを受け取りました。その時に、係員から「You ae self?」と聞かれたので、僕は「OK」と答えて自分でゲートに向かうことにしました。手荷物検査を終え、 出国審査では出国スタンプがパスポートに押され指定された時間通りにゲート「E6」に行きました。通常通りゲート入口でボーディ ングパスをバーコードで読み込んで改札されボーディングブリッジの手前で先頭で待ちました。そして、一般客より先にボーディングブリッジを渡り、機体の扉の前で自分の電動車椅子から機内用の幅が狭い車椅子に乗り換えて案内を待っていました。そうしたところ、なかなか座席に案内されず、そのまま動けない状態で放置され次第に、一般客がどんどん僕の前を通って乗り込んで行きました。 フライトアテンダントが先に僕の手荷物を機内のトランクに載せてくれましたが、その荷物も扉の外に次々と出され、隣にある電動車椅子もタグだけ付けてなかなか運んでくれませんでした。そして飛行機の扉が閉められようとしたので「Why?」と叫び続けましたが、扉は閉まってしまい、ボーディングブリッジも僕が乗ってるまま格納されていきました。その後、ゲート付近まで戻されて日本語がカタコトで出来る係員がアイフーォンの翻訳機能で「キャプテンはあなたを許可しない。動けないこと。バッテリーのことが問題。」 という趣旨の事を伝えられました。ここで疑問が僕は沸きましたが言葉が伝わらずにゲートから離れようとするので、僕はカタコトで 「ホテルはどうなる。」とか、「明日は日本へ帰れるのか?」などを係員に詰め寄りましたが、なかなか明確な答えが貰えませんでした。ホテルについては上司の係員が「メイダイ メイダイ」とタイ語でダメダメと繰り返してたように思います。昨日まで滞在していたホテルに戻れとも言われたので「予約もないし、今の時間(午前3時ぐらい)移動手段もないので無理だ」という話をしました。結局、明日のチェックイン開始時間にカウンターにまた来るように言われ確実に搭乗は保障できないが、キャプテンにリトライしてみるということでその場の話は終わりゲートまできた同じ順路を戻り、入国審査場では再入国のスタンプが押されまだ空港のロビーに戻されました。ホテルも取ってくれず、食事も自分で取れとの事だったので大きい荷物を抱えながら空港のベンチで仮眠を取って翌日の22時すぎにまた同じカウンターに行きました。その時は僕も 「ゴーイングジャパンOK?」と何度も聞き返して確認しましたが、キャプテンに聞いてみると言うことだけでまたボー ディングパスが渡され自分でゲートまで向かいました。搭乗出来ると確証出来たのはE6ゲートに行ってからです。この日も出国スタ ンプが押されても本当に日本に帰れるのかハラハラしました。搭乗拒否されてから一晩は、4つの荷物を盗られないように気を配りつつ過ごしたので、一秒も気が抜けずほとんど休めなかったです。しかも帰国する体勢でしたから現地通貨をかばんの奥底にしまい込んで取れなくなり、100バーツくらいで24時間過ごさなければならず、食事や飲み物も我慢していました。そういった心身両面での苦痛を強いられた24時間でした。
機長の判断の決め手としては、
(1)障害者自体の搭乗を知らなかつた。
(2)バッテリーのある電動車椅子の積載をしらなかった。
(3)そのバッテリーが危険物であると誤解した。
・・・などが考えられます。
機長の無理解と同時に連絡の不備などが考えられます。その事を中心に徹底した調査をしてください。
搭乗者の一人としては事前に綿密に連絡しておいて、航空会社と電動車椅子メーカーからの証明書をちゃんと持参したのにいきなり搭乗拒否されたのは裏切られた思いです。予約した便に私だけが搭乗出来なかったので詐欺行為に近いと言わざるをえません。ですから早急な誠意ある対応を切にお願い致します。
本件に関する詳細情報をお寄せいただきましてありがとうございました。現地空港スタッフへの聞き取り調査は完了し、現在、乗務員への調査が進行中でございます。
長らくお待たせいたしまして、誠に申し訳ございませんが、調査完了までもうしばらくお時間を頂戴できますようお願い申し上げます。
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(追記)手記執筆について
以上のように障害者であっても搭乗拒否をして欲しくないと敢えて要望している理由は、今後同じような障害者が搭乗拒否されて欲しくないからです。もっと言えばどんな障害がある人でも、すべての飛行機に乗れてどこへでも行けるようになって欲しいからです。LCC(格安航空)が参入したことで収入源が限られている障害者でも飛行機に乗りやすくなりました。だからこそ障害者をはじめいろんな人々が安心して搭乗できるLCCになって欲しいと願っております。そのことで僕の場合は旅行やアイドルが趣味ですが、それぞれの自己実現が、障害があっても成就して、どのような人でも人生を謳歌できる社会を願うものです。それがこのようなことに、あえてこだわる僕の本意です。
[2014年9月22日掲載]
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